ACとは
<アダルトチルドレン>
アダルトチルドレン(以下AC)とは、機能不全家庭で育ったことにより、現在においてもトラウマや低い自尊感情を抱えており、対人関係なども含めた生き方に困難や不安を抱えている状態を表す自覚用語です。
元来アルコール依存症の養育者の元で育った子どもから生まれた、自身の認知的、行動的な傾向を知るための概念でありましたが、現在では、ACとはアルコールの限りではなく、機能不全家庭の中で育った人たちと広義的な解釈がされています。
「機能不全家庭」と言っても、身体的、心理的、情緒的な逆境体験を含んでおり、AC同様に広義的な意味合いを持ちます。例えば...
◇暴力的な言動があり、耐えがたい思いを我慢せざるを得なかった。
◇ネグレクト(育児放棄)などを経験した。
◇DVの様子を見て怯えていた。
といった経験があったのかもしれません。また、直接的な暴言、暴力がなくとも...
◇自分の本音を言うことが許されなかった
◇家庭内で不和や対立があり、いつも怯えていた
◇過干渉により、自分で何かを決めることが許されなかった
◇他者と比較され、何かを成し遂げた時に自分の存在を認めてもらえた
◇常に養育者のニーズに応えるよう、要求され続けた
◇養育者の情緒的なお世話をせざるを得なかった
◇私なんかいなければ良かった…という思いをいつも感じ取っていた
といった心理的、情緒的な耐えがたい経験があったのかもしれません。また、兄弟がいる家庭では、同じ時間を過ごしながらも自然と与えられた役割があったのかもしれません。例えば...
◇家庭の緊張感を常にほぐす役割を自然と演じて
◇家族の期待を一身に背負って物事に必死に取り組んでいた
◇まるでそこに居ないかのように息をひそめていた
◇わざと問題を起こすことで、家族の問題を自分が背負った
◇親の情緒的なお世話をすることで、なんとか家族の形を守ろうと必死だった
幼少期の子供たちは、各家庭のルールや信念(かくあるべし)が、どんなに理不尽なものであっても、それを他人の家庭と比較したり、不都合なものであると理解することの出来る客観的な認知や社会性を持ち合わせていません。そして、自分がどのような存在であるかという、アイデンティティも十分に発達していません。
恥の感情を常日頃から感じていたら、友人や周りに助けを求めることも難しかったのかもしれません。そんな機能不全家庭という混乱の中で、それでも生きていくために、子供たちは必死に知恵を絞りだし、どうにかして自分を納得させる必要がありました。
「それでも愛して欲しかった、私を認めて欲しかった」という未完結の愛情欲求は無意識の扉に押し込まれ、つらい気持ちは「私がいけない子だったから、ダメな子だから」と言い聞かせることで、なんとか情緒を保つことが出来ていたのかもしれません。もしくは、非行に走ることで何としても親の関心をかき集めることに必死だったのかもしれません。私たちが持つ怒りや悲しみ、そして恥や自責はコインの裏と表の関係であると考えています。
かつてACという概念が日本中に広まった背景には、過去だけがつらかったから、という理由だけではないと考えています。
それは、家族という共同体の中で生き抜くために、身に付けざるを得なかった家庭での振る舞いや培ってきたパーソナリティが、いつしか対人関係を築いていくための「コツ」として染みついてしまい、それがどんなに不都合なことだと分かっていても、感情反応のクセとして再現され続けることで、生きることを困難にしてしまっているという所にあると思います。
認められることに必死になったり、過度の不安や恐れ、あいまいなことに対する不安(白黒思考)は、時として「頑張り、努力、真面目」と評価される一方で、終わることのない緊張感や満足感、さらにアルコールやギャンブル、性行為などのつらくてもやめられないアディクション(嗜癖,しへき)へと発展してしまう可能性もあります。
しかし、そんなACという特徴を感じながらも、今日まで生きてこれたということは、自分では想像できないほどの大きな勇気と強さを私たちは持っているという、揺るぎない証拠であるとも考えています。
その力強さは、ACという悩みが少しずつでも小さなものになってきたとき、現在や未来を少しでも良いものに変えていける希望となって、私たちの背中を見守り、時には押してくれるものと信じています。
当会の参加条件はどちらかの1つです。それは「ACだと自認している」もしくは「ACかもしれないと考えている」です。
年齢・性別・現在の立場など、私たちが認知、または所属している社会的な属性は関係ありません。何重にも着込んでいる「役割」を脱いだ先にある、無垢な自分がACだと言っているのならご参加いただけます。
また、参加者同士で生い立ちの程度を比べることもしていません。仲間の中には、虐待とはっきりと分かる暴力を受けてきた人もいれば、暴力、暴言はそこまでなかったけれど、夫婦仲が悪くて居心地が悪かったという人もいるのかもしれません。
私なんか参加していいのかな...と感じる方もいるかもしれません。ですが、つらいという気持ちや悩みは、比べようのないあなたの大切な感情です。
私なんかダメだ、生きている価値がない、みんな嫌っているに違いないと批判するもうひとりの自分が、自分のこころの中に住み着いている...これは本当に苦しいことだと思います。
私たちは「比較し合うこと」を目的としているのではなく「分かち合うこと」を目的としています。なぜなら、ACの多くは今でも他者との終わりのない比較に苦しんでいるからです。
幼少期より培われたつらい行動や思考のパターンを、将来的に手放していく。少しでも良い未来にしていくために、仲間の力を借りてほんの少しでも変容していきたいのです。
他者と比べざるを得なかったこれまでの人生から、せめてここなら比べなくても良いと思っていただける感覚を皆様と共有したいと考えています。
当会の活動を通じて、かつて十分に経験できなかった情緒的なふれ合い、分かち合いが行われ、今ここに生きているという安心安全の感覚を少しでも感じられるよう、一歩ずつ取り組んでまいります。
・当会が表記している行動や認知の特徴はほんの一例であり、決めつけたり非難をするものでは決してございません。
・ACは医学的な疾患名ではなく、自覚用語であることから、当会が診断を下すようなことはしておりません。よりACのことを知りたい場合は、書籍等をご覧ください。
・現在精神疾患等の治療をされている方は、主治医や周囲の方々とご相談の上、無理をしない範囲でご参加下さい。